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日米経済関係の将来

T. J. ペンペル (カリフォルニア大学バークレー校教授)


オリジナルの英文:
"The Future of U.S.-Japan Economic Relations"
http://www.glocom.org/opinions/essays/20030430_pempel_future/


要 旨


日米経済関係は、過去十数年間に何度か大きな変革を経験した。1980年代を通じ日本の輸出と経済全般は急成長したが、米国は不況であった。結果として、両国の貿易収支ギャップは拡大し、その格差是正のために両国の経済分野での関係は困難な時代を経験した。「輸出の自己規制」、「市場重視型個別協議」、「日米構造(障壁)協議」、「半導体合意」、「プラザ合意」等は、この面で最も顕著でありながらかつ異論も多い政策であった。しかしこのような状況は90年代に入り、「枠組み協議」の終焉をもって著しく変化した。日本ではバブルが崩壊し、13年間に及ぶ不況の始まりを告げた。対照的に、米国では製造業からサービス産業へと速やかな転換をはかり、特にIT分野で世界の最先端に位置することにより好況を享受した。


クリントン政権は軍備削減を進め、国内経済の活性化と多国間貿易主義政策を押し進めた。特に貿易面では、「ウルグアイ・ラウンド」、「北米自由貿易協定」、「米州自由貿易地域(FTAA)」、そして1993年のAPEC総会をシアトルで開催するなど、大きな成功を収めた。米国はまた中国との経済関係の改善に努め、その尽力は2001年12月、台湾と中国が同時にWTOに加盟を果たすという快挙となって結実した。APECでも主導権を発揮し、アジア太平洋地域での「自由な貿易と投資」を2010年までに先進国間で、そして2020年までには途上国間でも実現することを目指すこととなった。逆に言えば、この間、米国の政策の焦点は日本との二国間経済関係にはなかったということである。


80年代終わりから90年代初めにかけては、強い円が日本の対外投資を後押しした時期でもあった。投資のうちおおよそ半分は北米へ向かったが、四分の一は近隣アジア諸国に向かい、日本の会社、特に自動車、電子、工作機械関連各社がアジア各国に製造拠点のネットワークを構築する過程で、現地の経済躍進に貢献した。日本政府はODAを通じてこのような対外投資を支援し、日本の民間銀行もこの地域に巨額の貸付と投資を行った。その間、日本では経済改革の動きに活気が見られない中で、当時の橋本総理大臣がビッグバンを実行して日本の金融業界を変革し、その後小泉総理大臣は従来聖域とされた分野を目標に改革策を掲げた。結果としてこれらの動きは何れも日米二国間の貿易摩擦を緩和するのに役立った。


日米経済関係においては、個別の製品・事業分野についてそれぞれ独特の展開を経験してきた。しかし過去十年ほどの間の両国関係は、大きく三つの潮流に沿って発展してきたと言える。まず、冷戦の終了、中国の市場経済への傾斜、東南アジアとその海域での緊張緩和、そしてこの地域の各国政府による信頼回復策の成功等により、アジア太平洋地域において、安全保障面での環境が好転したことが挙げられる。全体としてみれば、従来この地域を規定していた「敵か味方か」という冷戦時代の単純な軍事的区分けがより好ましい方向に変化したと言える。貿易、投資、国境を跨ぐ生産拠点、容量が拡大した通信と輸送ネットワーク、そして地域の人々に浸透し始めた共通の文化 -- 例えば日本のアニメやカラオケ、韓国の歌手やテレビ番組、そして多国籍のメンバーからなる音楽グループ等 -- によって、アジア太平洋地域は、集中的な投資の受け入れを通じて更なる発展を享受し得る環境が整ったといえよう。日本がアジアにおける唯一の資本主義の成功例、という状況ではなくなるとともに、米国にとってみれば、日本は太平洋の反対側にある経済活動の拠点としての役割を果たす存在ではなくなった。このようなアジア地域の経済発展は日米両国を潤し、これもまた日米両国間の摩擦を緩和する働きを果たした。


第二の大きな潮流は、国境を越える資本の動きの著しい増加である。90年代の終わりには、1日あたり1.5兆ドルの資金が国境を越えていた。そしてこの殆どの部分は公的なものではなく、民間資金であった。これにより二つの重要な影響が発生した。一つは、経済政策にとって、資金と投資の流れが商品の貿易より大きな比重を占めるようになったことである。そしてもう一つは、日本と米国を含む各国政府による経済政策は、国内だけを切り離して推進することがますます困難になってきたことである。国境を越える投資の増加やグローバル化が進む資金資本市場の成長によって、各国政府は、ロバート・ライシュの言葉を借りれば「自分(政府)とは何者か?」という問いに対してますます答えを見出し難くなってきている。


三番目の潮流は、1967年に創設されたASEANを例外として従来アジアには非常に少なかった、この地域をカバーする経済分野の国際機関が数の上でも影響力の上でも増加してきたことである。「アジア開発銀行(ADB)」、「アセアン地域フォーラム(ARF)」、「アジア太平洋経済協力閣僚会議(APEC)」をはじめとする幾つかの公式・非公式な場、例えば「太平洋経済協力会議(PECC)」、「太平洋経済委員会(PBEC)」、「太平洋貿易開発会議(PAFTAD)」、など数十或いは数百にものぼる会議や団体が、既に実績があるWTO、IMF、世界銀行などと連携して新たないわゆる二線級の意見交換の場を提供し、そこでは日米間の問題のような個別テーマも話し合われている。二国間の問題を協議する場は、以前と異なり、ワシントンと東京の政府間同士の直接交渉に限られなくなってきた。


90年代を通じ、これらの動きにより、日米経済関係に二つの新たな側面が見られるようになった。一つは、多くの問題が、実は二国間の問題ではなくなってきたことである。日米二国間の貿易収支格差や特定商品の輸出入に関わる問題は、政治的関心も見出しの数も、そして関係者の思い入れも大きく減少した。同時に、アジア地域における経済の急激な拡大と各国相互の緊密な絡み合いが、結果的に日米二国間関係を好転させた。APECやWTOを通じて実現しつつある複数の国々による開かれた地域主義という枠組みが、二国間レベルでの摩擦を減少させたのである。このような変化を背景として、日本は米国からの二国間ベースの圧力をかわす多様な施策を実施することができた。そして米国にとっても、日本を通さない他の方法で直接アジア経済に関与して行く方法を模索することができた。こうして、日米二国間の緊張は急速に緩和されることになった。そして経済以外の分野、即ち安全保障問題についても両国の立場が再確認されることによって、一般的な意味で日米関係が著しく好転したといえる。


その後、特に1997-98年にかけてのアジア危機を境に一旦両国の関係が微妙になった。しかし興味深いことに、この時には、80年代に経験したような両国の主張の隔たりによる軋みは生じなかった。これは、日米間の経済問題という場合の焦点が、それ以前からは変化していたためであった。しかし二国間の貿易が直接には摩擦の元にはならなくなっても、新たな分野で問題が生じるようになってきた。


1997-98年のアジア危機は、地域の国々にとって重大な分岐点となった。日本政府は事態の改善のために「アジア通貨基金(AMF)」の創設を提案したが、これは米国と中国の反対にあって挫折した。結局、タイ、インドネシア、そして韓国に対して米国型の経済政策を強制する形での救済措置を提供したのはIMFであった。それに続いて日本は新宮沢構想に基づき、300億ドルの救済資金を被害の大きかった五カ国に提供した。今日、若干の例外を除いてアジア太平洋地域の国々はおしなべて不況下にあるが、二度とあのような危機を繰り返さないという決意は固い。当時米国とIMFが主導した新自由主義経済に対する反感はこの地域において未だに根強いものがあり、現在IMFで実施されている加重投票制度をはじめ、世界の金融システムの見直しを求める声も強い。


これと関連した現象として、「アセアン・プラス3(APT)」の役割拡大が新たな問題を発生させ始めている。特に、APT13カ国(アセアン10カ国に日本、中国、韓国が加わったグループ)が再度の危機を防止する目的で2000年5月にチェンマイで合意した、通貨スワップ協定が問題視されている。この協定は、現在のところ概ねIMFとは協調・協同が可能な形となっているが、この協定により、APT13カ国は1兆ドル近くの外貨準備を保有しており、将来はIMFの救済措置を拒否することが可能となっている。この協定はまた米国のこの地域に対する金融面での影響力に対抗するものであり、長期劇にはアジア全体に対する影響力に関して米国の金融政策と拮抗する可能性を秘めている。アジア諸国にとっては、このような展望を背景として、IMF自身の政策決定に関しても、例えば加重投票の比重を変化させるなど、国際金融システムにおける米国と欧州の影響力を低下させる一助ともなり得よう。


日米の経済関係は、アジア太平洋地域で各国の間に締結されつつある二国間の「自由貿易協定(FTA)」によっても変化しつつある。2002年6月現在、世界全体では143の二国間FTAが存在していたが、このうち117は1990年以降に締結されたものである。日本は2002年1月にシンガポールとの間で初の同様な協定(「新時代の連携のための日本・シンガポール経済協定(JSEPA)」)を締結した。日本は引き続きメキシコと交渉を続けているほか、他にも韓国を含む幾つかの国々との協定を検討している。因みに米国は既に数十に及ぶこのような協定を結んでいる。このようなFTAは(例えば経済産業省が目論む通りに)日本国内の各経済分野を自由化するための基盤として機能する限りにおいて、そして世界的な自由貿易システムを構築する方向への要素となる限りにおいては、間違いなく日米経済関係に好影響を与えることになるであろう。しかしこのような協定は、他方で特定の分野に関して新たな摩擦を引き起こす可能性を有している。例えば、日本がメキシコとの間でFTAを締結すれば、北米自由貿易協定の手続きを援用することによって、日本製品がメキシコ経由で米国になだれ込むという可能性が高まる。FTAの増加はまた、日米両国政府による二国間の関係充実という政策議論が軽視されるリスクを秘めている。これがむしろ両国間で問題を冷静にそして理詰めで解決することにつながるかも知れないという意味では良いことかも知れないが、同時に両国間の重要な問題を見過ごしたり無視したりすることになるという懸念もある。


現在両国が認識する経済問題としては、日本の止め処ない不況と、これに対する政府による正面からの取り組みに熱意が見えないことが挙げられよう。国内では巨大な不良資産の処理と遅々として進まない経済構造計画が大きな問題である。そして国外からの改革促進の助力は、カルロス・ゴーンの人気と日産での成功を例外として、全体としてはほぼ皆無である。外国からの対内投資は僅かに増加しているが、これも他の先進国平均である2.0%を大きく下回る1.2%にしか達していない。日本経済は今でも全体としては重商主義的な傾向があり、これが米系企業を苛立たせ、政治問題化する可能性もある。


長い間、経済力こそが日本にとって国際交渉の場での有力な交渉手段であった。経済力が弱まるにつれ、国際的な地位と影響力は低下した。世界の輸出に対する日本のシェアは1986年に10.2%だったものが、2000年には7.6%に落ちた。日本の対外投資は1992年に世界シェアの12.4%と米国に次いで第二位を占めていたが、今日では第八位という1980年の位置にまで後退した。1998年以降、日本の銀行や製造業は東南アジアから貸付や投資のかなりの部分を引き上げた。日本が、IT、ブロードバンド、金融サービス等で近隣諸国の後塵を拝するようになるにつれ、地域の成長エンジンとしての役割とともに米国にとってのアジアの経済的橋頭堡としての地位も低下しつつある。同じように、APECでの「早期自主的分野別自由化(EVSL)」討議から日本が早々と退席したことは、日本では特に農業分野での保護主義政策がしっかりと定着機能していることを示している。この結果、日本は米国とアジア双方の不信を買い、「日本通過(Japan passing)」の感情を惹起することになった。2002年には中国がASEANとFTA協議を開始することに合意した事態を前に、小泉首相が「課題の検討を約する」という以上の対応が出来なかったことは象徴的である。より広い観点からは、日本の経済停滞と中国の外資歓迎政策による急成長が、以前のアジア地域における「成長の水先案内人」としての役割から日本を引きずり下ろしたと言えよう。


ブッシュ大統領による米国の一国行動主義と先制攻撃主義への政策変化は、日米経済関係に悪影響を与える要素を孕んでいる。ブッシュ政権は就任以来、経済への取り組みと多国間主義という政策方針から遠ざかり、国際関係への対処は軍事的手法に頼る形で、多国間主義から超一国主義に変化した。米国以外の国際社会が合意した政策や合意は、「地球温暖化防止に関する京都議定書」をはじめ、「1972年生物兵器禁止条約」、「国際刑事裁判所」、「弾道弾迎撃ミサイル制限条約」、「対人地雷禁止条約」に至るまで全て無視された。


ブッシュ政権による高圧的な教訓主義や米国の優越的な地位に関する発言は、日本やアジアの大部分をはじめ、多くの米国の同盟国には受け入れられていない。多国間主義を拒否する一環として、ブッシュ大統領は2002年メキシコのロス・カボスで開催された首脳会議を欠席する形でAPECを否定した。アジアとの関係も、金大中大統領の太陽政策や小泉首相の平城訪問をあからさまに批判することで著しく悪化した。北朝鮮がKEDO協定から離脱して独自の核開発を進める事態に対して2002年9月20日ブッシュ大統領が先制攻撃も辞さない旨の演説を行い、北東アジア一帯で大掛かりな武力競争が発生する危険を増幅したことは、すでに悪化していた米国とアジアの関係を更に危機的なものにした。


米国の国内経済政策も日本との関係を悪化させたが、これは日本に限ったことではない。ブッシュ政権は日本の保護主義を非難する一方で、国内農業に対する補助金を増額し、鉄鋼一般とカナダ産木材に対する輸入関税を引き上げ、衣料の輸入削減を行った。国内では、前政権から引き継いだ財政黒字が、経済成長の停滞、巨額の減税、そして増加する軍事支出で消滅してしまった。日本は米国の軍事行動に対し明確な支持を表明はしたが、第一次湾岸戦争で支払った130億ドルに上る支援のようなものを今回提供する可能性は小さい。戦後のイラク再興に向けて日本がどのような役割を果たすのかも不明であるが、日本としては援助を行うのであればイラクが国連の管理下に入るべきと考えているのに対し、米国の考えは不明である。


米国と日本は引き続き世界の二大経済国である。1980年代に、ゼロサム思考に嵌った末に両国間に発生した多くの摩擦は今や解消した。一見これは将来に向かって良い関係にあるように見える。しかし実際は、日本自身の経済問題、アジア一帯の景気の停滞、中国の経済的逞しさ、引き続き強大化する民間資本、そして米国による国内の保護主義と外国に対する一国主義と軍事的解決志向、これら全てが新たな分野で深刻な経済的緊張を引き起こす構造的問題を抱えている。そして現在の事態は、近い将来日米相互の不信感が増大すると同時に、過去には機能したところの、二国間協議を通じて問題を解決するという両国政府の能力が低下してしまう可能性を含んでいる。

(日本語訳:浦部仁志)

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